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いいサウンドの追求を再認識。高久光雄さん

Ken's Clinic連載第二回目は、株式会社ドリーミュージック取締役エグゼクティブ・プロデューサー高久光雄さん宅に伺いました。古くはミッシェル・ポルナレフ、フランソワーズ・アルディなどのフレンチ・ポップスをヒット日本に定着させ、その後、矢沢永吉、南佳孝、アンドレ・ギャニオンなどの制作担当として活躍した高久さん。今やレコード業界でも数の少なくなったオーディオ・マニアでもある高久さんにKen'sClinicを受けて頂いた。

いいサウンドの追求を再認識。高久光雄さん オーディオに興味を持ったのは伯父の影響です。親父が音楽家だったので子供の頃から家にあった大きな蓄音機でSPを聴いてました。親父の弟でクラシック好きの伯父が近所に住んでいたので、伯父がアンプを作っている側で僕は電池とかモーターのおもちゃ遊びをしていました。回路とかは分かりませんが、伯父が工作しているのを見るのが好きだったので、オーディオ好きの下地がその時に出来上がったんでしょう。

中学の頃は兄達のレコードを皆で聴いてましたが、ある時フランク・シナトラの「イン・ジ・ウィ・スモール・アワーズ」というアルバムを兄貴が買ってきました。そのアルバムを何度も聞き、ボーカルが好きになりました。クリスタルカートリッジのついたコロンビアのポータブル・プレイヤーにイヤフォンをつないで兄貴の持っていたワグナーを聴いた時には、演奏の素晴らしさに体に電流が走りましたね。

Ken'sClinic高久光雄 高校の頃はちょうど真空管からトランジスターに切り替わる時代で、秋葉原のヤマギワ電気が僕にとってはオーディオ好きのメッカ。ある時ヤマギワを訪れた時、パイオニアの真空管パワーアンプにワーフデールだったかのスピーカーをつないで鳴らしていた音がとても素晴らしかった。それがぼくのオーディオの原体験、初めて出会ったいい音でした。

大学に入学してアルバイトで稼いだお金でダイヤトーンの16センチのスピーカーを買い、酒屋からもらったジョニー・ウォーカーの箱に板を木工屋で買いスピーカーを取り付けて聞いてました。ジョニー・ウォーカーの箱は音は良くなかったけれどカッコいい。パワー・アンプもプレイヤーも持っていませんでしたから、コロンビアの電蓄にスピーカーをつないで鳴らしていました。

ボーカル・トレーナーについてレッスンを。1964年は若者文化が大きく変化したメモリアルな年で、まず平凡パンチが発売され、ファッションではIVYやコンチが出てきたし、音楽はビートルズやベンチャーズが登場し、ブラザース・フォーとかフーテナニーもブームになりました。モダン・ジャズもです。渋谷のジャズ喫茶「デュエット」によく通い、ブルーベックとかハービー・マントか軟派な感じで聴いたのもその頃。

音楽はジャンルに関係なく聴いていました。シナトラ、ビートルズ、ブラ・フォー。仲間と一緒にブラ・フォーを歌い、シナトラの次に好きになったのがアンディー・ウィリアムス、癖が無いので歌う時のベーシックになりました。ある時母親の友達の娘さんでジャズ・ボーカリスト峰純子さんの前でアンディーとかビートルズを歌ったら、うちの母に峰さんがボーカル・トレーニングを受けさせなさいと言われ、有名なボーカル・トレーナーの笠井幹男先生に習いに行き始め、ボーカルを聴き漁りました。なにしろ当時はお金がないから一枚のアルバムを100回は聴きました。

歌は世界中にあるから、ジャンルというのは関係がないです。大学3年で就職を考えていた時に平凡パンチの「我が家のフレッシュマン」というコーナーにコロンビア・レコードのディレクター泉さんが登場していて、アーティストを見つけてレコードを創るディレクターという職業があるのを知り、音楽が出来てビジネスも出来るのでレコード会社に入ろうと決心しました。

学校推薦でビクターや日本コロムビア、それにキングやクラウンにも行きました。コロムビアとビクターを受験して筆記は両方とも受かりましたが、ビクターとは面接の時にケンカしてしまったので、日本コロムビアに行くことになりました。

◯ソナスファベールの甘い音が大好きなんです。コロムビアの新宿営業所で働いている時に、毎月、杉並公会堂で新譜をきかせるレコード・コンサートがあり、スタッフとして協力していたマイクロ精機の人から安くアナログ・プレイヤーを買い、ラックスの真空管のアンプを買ったりして、例のダイヤトーンのスピーカーのまわりを固めました。

社会人になってお金に余裕もできたので、オーディオにつぎ込めるようになり、スピーカーやアンプを色々と買い替え、僕の音の旅が始まりました。いろいろスピーカを替えましたがやはりJBLがどうしても欲しかったので、ガラスのレンズのようなツイッターのついたL50を買って、随分長い間使いました。アンプをマッキンにしたり、パスのパワー・アンプにしたりして、40歳ぐらいでようやく自分の好きな音が鳴り始め、坂本龍一が遊びに来た時、自宅でもこんないい音が出るんですねと感心してくれました。

ある時、兄貴がソナスファベールのスピーカーを色々買い、エレクタ・アマトゥールを僕に貸してくれました。その音色がとても甘くて気に入ったのでアンプも色々変えましたが、年をとってきたので、ギックリ腰にならないようにソナスのアンプを買いました。

その後、引っ越しをきっかけに自分の部屋が出来たので、ソナスファベールのミニマ・ヴィンテージを買い、純正のスピーカー・スタンドを借り、ラックスのSQ38FDを買ったのが5年くらい前のことです。CDプレイヤーはラックスのD-08を買いました。

Ken'sClinic高久光雄◯ポルナレフがやりたくてCBSソニーに移りました。ボーカルの宝庫だったCBSを発売していた日本コロムビアに入社した二ヶ月後にCBSがソニーに移ってしまいました。
その頃、ワーナー・パイオニアとかポニー・キャニオンとか新しいレコード会社が次々に出来て、日本コロムビアからもどんどん引きぬかれて人がいなくなり、人手が足りなくなったので、洋楽のディレクターをやりながら、宣伝もやって、全国営業会議の資料も作っていました。1910フルーツガム・カンパニーの「トレイン」とかルー・クリスティの「魔法」、フライング・マシーンの「笑ってローズマリーちゃん」、ダニエル・リカーリの「二人の天使」なんかをヒットさせましたが、ロックがニューロックの時代に突入して活気を帯びてきた頃の小さな抵抗です。

大学4年の時にソルボンヌに留学している従姉が持って帰ってきたEP盤の中にミッシェル・ポルナレフがあり、ぼくは絶対に売れると確信しました。ポルナレフが所属していたAZというレーベルは日本コロムビアと契約していたので、日本で発売出来ると思っていたのに、AZは海外の発売権をCBSに売ってしまい、ポルナレフを発売出来なくなってしまった。

CBSソニーの洋楽連中が「うちに来いよ」と誘ってくれたので当時のトップの大賀さんに「ポルナレフをやらせてくれるのなら行きますよ」と答え、CBSソニーに移ることになりました。EPIC/SONYレーベル立ち上げの時には昼間コロムビアで働いて夜はソニーに行って徹夜で準備の毎日でした。

その後、ポルナレフ、フランソワーズ・アルディなどのフレンチ・ポップスをヒットさせましたが、海外で自国のマーケットのために作られて音楽に飽きて、自分で作れば納得いくだろうということで、社長に邦楽に行かせてくれと申請して邦楽に移りました。その頃から歌謡曲とは違う日本の音楽、ニュー・ミュージックの気運が高まり、矢沢永吉、金子マリ、南佳孝、ハウンド・ドッグを獲得し担当しました。

CD ◯プロデューサーとしての役割。僕は一生音楽から離れられないと思います。子供の時から頭の中で音楽が鳴っているので。僕にとってオーディオ・システムは単に音楽を再生する為の道具ではなくとんでもない世界へ連れて行ってくれるパートナーです。

国内制作に移り、アーティストと出会い、アレンジャー、スタジオ・ミュージシャンそして耳が素晴らしく個性的なエンジニアに出会って、音楽が目の前で生まれてくるようになったのです。様々な才能がスタジオの中で新しい音楽を創造して行く。素晴らしい経験でした。目の前で才能を発揮して、音楽を豊かにしてくれました。本人の持っている持ち味を充分に活かして、より良いものを引き出す努力は惜しみませんが、本人が売れてくると揉めることも多々起こります。

海外のプロデューサーでは、スタジオサウンドを変え、エンジニアの立場を変え、スタジオ自体も作り変えて誰にも出せなかった音を創造するトム・ダウドが凄いと思いますし、自分に持ち味が近いと思うプロデューサーはトミー・リピューマです。

スタジオの中で音を創る時は、どんな条件でも一番伝えたいというものが伝わるように心がけています。一番伝えたい風景とか雰囲気とかストーリーを伝わるようにつくり、それを僕は楽しみます。それはアメリカでは当たり前のことですけれど、日本ではなかなか認められません。例えばトミー・リピューマがプロデュースしたものは、リピューマの音がしますが、それが日本ではパターンにはまっていると言われてしまう。そのサウンドがプロデューサーの個性なのに、いつもと同じだと評価されます。日本ではプロデューサーのセンスとか技量が評価されにくくて、サウンドではなく詞が分かっているプロデューサーしか評価されません。

ここ10年間日本の音楽に新しいサウンドが出てきていないし、歌詞はどんどん個人的な狭い小さな世界に入り込んでいます。様々な好みの人にそれぞれ違った世界を呼びかけるような歌詞の世界が失われています。過剰なサウンドと視野の狭い詞の世界がどんどん1つのベクトルの世界にはまっている。「頑張れ」、「みんなひとつだ」と。なんか世の中応援ソングで溢れていませんか?

◯Ken's Clinicを受けて。今回試聴に使った佳孝やアンドレ・ギャニオンのアルバムは、レコーディングからトラックダウン、マスタリングに至るまですべて立ち会っています。そのスタジオの空気感とか、アーティストの口の大きさまですべて覚えていますから、音が出た時に自分のイメージとの食い違いがよく分かります。

石黒さんに試行錯誤して頂いた結果、最終的には口の大きさまでジャストになりました。僕は官能的なサウンドが好きなのですが、現状のシステムとしてはベストを出し切った音になったと思いますが、もうすこしストーリーや音楽の中に「一瞬の風を吹かせたい」です。

オーディオ・アクセサリーはほとんど使ってきませんでした。使い始めるとキリがないし、アクセサリーを外したからといって命に別状はないと思うからです。

料理の時に、素材の味を引き出すやり方がありますが、石黒さんのつくる音にはそれを感じました。素晴らしいシェフだと思います。リスニングルームやオーディオシステムの問題点をクリアーして、それぞれの楽器の音を引き出してくれ、とてもいい音だと思います。

でもね、例えば、洋服を着る時に、きちっと着こなすやり方もあるけれど、ちょっと外して、だらしなくなる一歩手前で粋な味を出すという着方があると思います。自分なりにね。素直でナチュラルな音ではなく、自分好みの味付けをする。そういった音が人の心に入っていきやすいんじゃないかと僕は思っています。エラ・フィッツジェラルドは上手いけれど、カーメン・マックレーの方がグッと来るよねということってありますからね。要は自分の家で自分の好みで聴きたいってことですね。現在の状態から更に自分好みの音に持って行けるかが今後の課題でしょうね。

◯今のシステムには満足しています。機材の購入はオーディオ・ユニオンの三輪君に相談しながら今のシステムを揃えました。電源は和田君が絶賛するキンバリー、三輪君には山ほどケーブルを持ってきてもらって聴き比べもしました。

最終的には伯父さんに作ってもらった300Bのアンプをつないで、今の音が完成しました。今はプリとしてSQ38FDのプリ部分を使っていますが、これを何とかしたい。でも、今のシステムの音色がとても気に入っているので、大きく変わってしまうのは嫌なんです。MCトランスをもうちょっとグレードアップしたいとも思っています。